2017年02月23日

真壁のひなまつりと珈琲

風の強さが出際を鈍らすが
春一番が吹き荒れた日、噂
に聞いていた「ひな飾りの
真壁
」を訪ねてみた。
  
  
IMG_5094.JPG
  
  
そんな真壁で出会った二軒
の喫茶店の閑話を一つ。。
  
  
 
   
橋本珈琲
  
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創業江戸時代の風情を残し国の有形文化財に登録された橋本旅館母屋に内設された「橋本珈琲」は2013年にグッドデザイン賞を受賞している。珈琲大好きの若女将が本業と併せて切り盛りしている。
  
  
IMG_4580.JPG実は迂闊にもと言うか、私はこの喫茶室を利用してないのだ。素泊まり早朝出発の際に朝の珈琲をオーダー可能かと尋ねたことから珈琲談義が弾んだ。時間をかけて丁寧に入れて頂いた一杯を手にして立ち話を30分余り。珈琲にかける熱い想いを聞かせていただいた。朝食を出せずに申し訳ないと言いながら、焼きたてのワッフルを出際にサービスいただく。どこまでも心温かい若女将さん。
  
  
  
  
喫茶蔵前
  
IMG_5123.JPG
  
  
若女将の推奨に従い、五所駒瀧神社に続き清酒”花の井”蔵元の展示雛を見学し終えて醸造所を出ると、道を隔てた向かいに古い民家を改造した「喫茶蔵前」があった。
  
  
IMG_5127.JPG少し休憩しようと入ってみると、カッコいい若いバリスタオーナーと地元の方と思しき方が談笑していたので、先に奥のお雛様を見てから珈琲をオーダー。レトロな雰囲気のお店は超オープンで珈琲を入れていくプロセスがよく見える。バリスタ修行に始まりお店で使っている豆の特性紹介まで、珈琲にかける若者の夢は聞いていて楽しかった。早く定常営業できる場を構えられることを祈る。
  
  
  
気の利いた喫茶店との思わぬ出会いは旅を更に味わい深くする。真壁という初めての地で雛と珈琲が紡ぐ人との出会いはある種一期一会のようでもあり心温まる一時であった。(閑話)
  
  
  
  
  
■関連情報
 ▼八七咲き街 真壁物語 橋本珈琲(真壁、八七咲き社中)
 ▼橋本珈琲(D&DEPARTMENT)
 ▼文化財喫茶・橋本珈琲(ゆたり)
 ▼陸の孤島の おひな様/時の狭間にて(4travel.jp)
 ▼真壁のひなまつり(観光いばらき)
  
  
  
  
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2010年02月07日

富士見十景乙女峠から見た富士

  
20100206_Fuji_6.jpg



20100206_Fuji_1.jpg 20100206_Fuji_4.jpg 20100206_Fuji_7.jpg



いまさら富士だが、されど富士
週末午後3時、車で出かけるには少し遅いが
快晴に誘われ愛車を駆って富士を見にドライブへ
御殿場まで約100km
東名は横風強く小さなiQいかにと思うも影響なく
一時間弱で富士見十景のひとつ乙女峠に到着
標高1000m近く外気は0度を割り残雪厚く残りて雪景色

しばし雲が流れ移ろい行く富士を堪能
雲が夕映える頃から一気に日が落ち周囲が暗くなってきた
仙石原側へ下りていくにはさすがに遅い
坂道の途中で見かけた富士八景の湯につかり体を温めた後、帰路へ
   


20100206_Fuji_11.jpg 20100206_Fuji_12.jpg 20100206_Fuji_5_1.jpg


20100206_Fuji_8.jpg 20100206_Fuji_10.jpg 20100206_Fuji_9.jpg



20100206_Fuji_10.jpg



■富士山(Mount Fuji)は、静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町)と山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山。標高3,776m。日本最高峰[1](剣ヶ峰)であるとともに、日本三名山(三霊山)、日本百名山・日本の地質百選のひとつでもある。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。1952年(昭和27年)に特別名勝に指定された。(Wikipedia引用)



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2010年02月04日

再興の表徴か東京スカイツリー

2月4日、立春
旧暦では一年のはじまり。
きりっと冷える冬日の立春に
元旦から世間を騒がしてきた地検小沢捜査
は不起訴処分となり一区切りを迎える一方
で横綱朝青龍は自ら引退でけじめをつけた。
お騒がせはもう結構。。




ところで




■閑話1 日本再興のシンボルか新東京タワー(東京スカイツリー)


立春の前の日、用を終え地下鉄神谷町駅へ坂を下り始めようとした際、ふと見上げた東京タワーに登ってみようと思い立った。2年ぶりくらいか。比較的空いていて待ち時間なく大展望台まで登ることができた。雲少なく青空も逆光になる西方面は少しスモッギー。360度ゆっくり東京全域を俯瞰しながら眺めていると、墨田区方面に建つ二代目東京タワー(東京スカイツリー)が、かなり目立つ高さに伸びてきていることに気がついた。


2010_東京タワー_4.jpg2010_東京タワー_1.jpg2010_東京タワー_3.jpg2010_東京タワー_2.jpg


2010_新東京タワー_2.jpg新聞などで見ることはあったが、自分の目で実物を眺めるのは初めてである。足下の東京タワーが建設されて50年余。高度経済成長下の全事象を揺らぎなく眺めて来た東京タワーが、二代目東京スカイツリーにその立場を譲る。どこか団塊世代の引き際にも似ていて、止めようのない時の流れを前に少しばかし感慨深いものを感じる。


本来なら豊かに充実したはずの日本が政治も経済もがたがたで憤りを覚える昨今だが、東京スカイツリーを眺めていると、再びもろもろの期待を背負った『日本再生のシンボル』としてそびえたとうとしているかのようでもあり、『日よまた昇れ』と念じたくなる思いである。まーそんなことも考えながら少し遊び心にもどきをいくつかつくってみた。


2010_新東京タワー_1.jpg〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 立春や 明日に輝け 塔二つ
 立春や 明日に向け立て 塔二つ
 立春や 明日にそびえん 塔二つ
 象徴の タワー立春に そびえつつ
 期待負い ツリー立春に そびえたち
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




■閑話2 これもまた東京の雪景色かな


東京に初雪が降った翌日のビル屋上
や民家屋根に残った雪。その雪景色
もまた東京の雪景色か?

2010_東京雪景色_1.jpg




■閑話3 ほんとに大丈夫?上海万博


先月末に上海に寄った際、帰りの空港に向う前の束の間を利用して上海万博の会場をできるだけ効率的に見てみようと考えていた。以前、どこかのブログでループブリッジ(魯浦大橋)からの俯瞰が穴場との情報をキャッチしていたので、ホテルロビーの観光案内で変な英語と中国語の会話で見ることができると確認し簡単な見取り図を書いてもらってタクシーに載ったまでは良かったが、この運転手さんあっという間に高速に乗って橋を目指し始めた。

ちょうど浦東空港から市内に入る直前を逆行している訳で、これでは下りる事も止まる事もできないと気づき、運転手に話すもまるっきり通じない。橋を超したところで一旦高速を降りて再度、身振り手振りに筆談交渉。人柄は実によい運転手さん自社に電話して今度はOKというので、まーもうどうでもいいがホテル方向にだけは帰ってくれで、再度高速にのり元来た方向へ。右下方向に会場が見え始めたあたりで車を右端車線に寄せて減速し、それ撮れ撮れと大胆にも徐行運転をはじめてくれた。ちょっと違うんだよとつぶやきなら何枚か撮ってはみたが目的未完遂。事前確認ミス、指示ミスによるやじきた珍道中に苦笑せざるを得なかった。


Shanghai_World Expo_1.jpgShanghai_World Expo_2.jpgShanghai_World Expo_3.jpg


反省です。魯浦大橋(ループブリッジ)に登って万博会場を見る場合は、観覧用エレベータがある高速道路の橋の下にある受付事務所へタクシーを向わすよう指示してください。(この方のブログがそのものずばりです。先に見ておくべきでした)
■詳細情報 ⇒ 上海ハニーPooh!(魯浦大橋―上海で最もお勧め穴場スポット

それにしてもあと86日、外から見ると完成度も低い工事中といった感じがするが、パビリオンの建設や会場の運営ってほんとに大丈夫なんでしょうかね??(閑話)



Shanghai_World Expo_6.jpgShanghai_World Expo_7.jpgShanghai_World Expo_10.jpg

新聞上海デイリーの一面は連日、写真入り万博盛り上げのニュースが。福田元首相の上海万博に寄せるメッセージがキッシンジャー(この下)と並んで出ていました。メッセージは上海万博のサイトのどこかに載っています。どこかと書いたのは一度確認できたのですが、再度、日本語で探しても2008年中頃のニュースが最新だし、見えない頁リンクが多く見つからないから。一体この出来具合はなんだろうと頭がいたくなりますね??

Shanghai_1.jpgShanghai_2.jpgShanghai_3.jpg

街の美化ということで右端の写真の赤い屋根は最近塗り替えているようです。

Shanghai_4.jpgShanghai_7.jpgShanghai_6.jpgShanghai_Art Museum_1.jpg

街角風景



■関連情報
 ▼TOKYO SKY TREE(公式サイト)
 ▼東京スカイツリー(My Blog)
 ▼中国2010年 上海万博
 ▼上海万博日本館公式サイト
 ▼日本産業館公式ホームページ
 ▼上海万博大阪出展公式サイト



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2009年11月29日

Wedding in Hawaii

Wedding in Hawaii


結婚、お目出度う
青い空と海、緑の木々、澄んだ空気、明るい陽光、
ハワイの全てが純白のドレスに身を包んだ新婦と寄添う新郎を
祝福しているかの海辺の白いチャペルでのウエディングだった
育んできた愛の鍵で幸福への扉を開いた二人の未来に幸多かれと祈る


Hawaii_200911_2.jpg

Coming together is a beginning; keeping together is progress;
working together is success.

Congratulations!





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2009年11月26日

束の間のブルーハワイ

プレスリーが『ブルーハワイ』に出演したのが1961年
同じ年、坂本九が『上を向いて歩こう』を出し
3年後には東京オリンピックが開催された
50年近い歳月が流れ
何もかも変った中
それでも
ハワイには抜けるような
ブルーが満ちていた


Hawaii_See.jpg
Views from Submarines Atlantis



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2009年08月29日

関宿と石垣屋

夏休みを終え
再びいつもの生活が戻ってきたが、
忘れない中にこの夏休みに訪ねた
関宿と飛び込みで泊めてもらった
石垣屋さんについて書いておこう




3関パンフ.jpg





ところで、『関宿』を知ったのは、




一旅人.jpgビル地下ファミマに置かれた一冊の雑誌『一個人 気ままに一人旅』(KKベストセラーズ)だった。夏休みを前にした昼休み、なにげなく取上げた雑誌をめくってみると『関宿』の紹介が出ていた。曰く《江戸時代の本陣から旅籠、高札が現存する唯一の宿場町。日本三関に数えられた東海道四十七番宿場。一歩足を踏み入れると江戸時代にタイムスリップしたかと錯覚を起こさせるような家並みが続くふるい宿場。唯一完全な形で現存する東海道の宿場町を散策する。》。。と
写真に添えられたキャプションを読んだ瞬間、夏休みの帰省途中に立寄ろうと思い立った。古い家並みも味わいがあって私好み。亀山なら立寄れるじゃないかと。。最近はめったなことで小生の車ドライブにつき合わない女房殿ご臨席で深夜に発ち朝の涼しいうちに探訪する予定だったが、意地の悪いお天道様は大雨を降らし叶わなかった。



それでも1週間過ぎた東京への帰路に立寄れたのは二つの偶然による。
一つは地震による東名道路の崩落。四国を出て名神の大津SAまで走ってきたところで帰省中に逢った旧友から携帯に電話が。。『エッツ!東名が地震で通行止めだって?』『何も通報が出てないけどね。さーどうするかな?中央道で帰るか、どこかで一泊するか??』などと話しながら、往路で立寄れなかった『関宿』を思い浮かべていた。もう一つの偶然は電話を受けたのが大津SAだったこと。これが新名神へ分岐する草津JCTを通過していたら、その気にならなかったかもしれない。大津-草津間はわずか10kmである。



地蔵院_2.jpgしかして大津SAを後にし草津JCTで新名神に分岐し亀山JCTを目指すことに。。初めて走る新名神は山間の道で草津分岐後まもなくして信楽や甲賀など知られた地名が現れる。そのまま3分の2ほど走った土山SAに入り東名情報を確認した後、亀山JCTで伊勢自動車道へ分岐し次の亀山ICを下りて1号線沿いに少し走ると関宿についた。時間にして夕方の4時頃。夏の日は高く、その日のうちに関宿を見て後にすることもできそうだが、帰路を急ぐ理由もないので泊ることに。。



石垣屋_3.jpg街道沿いの旅籠ってな感じの古い建物を生かした宿屋がないか探してみるが、たいてい近くのビジネスホテルか国民宿舎を紹介してくれる。しかし、せっかくなので東の追分から旧街道沿いの町並みに車を入れゆっくり走っていると中頃に『石垣屋』が見つかった。土山SAで関宿の資料館に電話して泊れそうだということを確認していたが、まさしく飛び込みなので車を止めて若いご主人に打診。気さくな感じのご主人は一通り泊まりのシステムを説明した後、それでもよければというので、小生は願ったりと素泊まり3,500円(寝具代込み)なりの一宿をお願いすることにした。



その日は結果的に一人だけの宿泊になった。いつもは結構、ライダーさんや旅好きの若い人で混合うらしい。男女別部屋だが相部屋で食事も自炊したものを相互に交換しながら宿泊者が相集って過ごすスタイルが基本とのこと。さっそく大きな古い江戸時代に創られた町家を一人で利用させていただいた。



石垣屋_4.jpgやがて日も落ち紹介してもらった街道沿いの食事どころで夕食をとり、再度、石垣屋に帰った所で勤めから帰った奥さんと三人でしばらく談笑。その後、お酒を聞かれるが「痛風上がりで遠ざけている」と言ったものだからご主人は一人で遠慮気味に晩酌を始めたので、マー一杯位はといった処から結局23時まで二人でさまざまなことを話しながら飲むことになった。楽しい談笑だった。ご夫婦のなれそめやこの石垣屋を開業するに至までの経緯などほんとに忌憚なく話を聞かせていただき、その上に沖縄で習得された蛇皮線(三線)も聞かせていただいた。考えてみれば親子ほどの歳の差があるのだが。サラリーマンを脱し力強く自分たちの意志で生きる若者の力強さを感じつつ。。



玉屋_2.jpg翌朝は7時頃に起きてまだ人がいない合間の涼しいうちにと関宿の町並みを探訪。お店や資料館はだいたい9時頃からオープンなので少し早いのだが、それでも石垣屋さんの隣の玉屋歴史資料館ではオープン前の掃除をしているところで入館させてもらい貴重な広重の浮世絵など見せてもらった。ここでも偶然に前の日、土山SAから資料館に電話した際にでられた女性の方がその場にいて石垣屋紹介と宿泊の礼を言って、少し話を聞かせていただいた。結局、あれこれ見て回り宿に帰って荷造りをして石垣屋を後にしたのが12時頃になった。


寛永通宝.jpg
石垣屋リピーターへの手形は古銭らしく気に入ったものを一つ持って行ってくれというご主人に従って寛永通宝を一個いただき石垣屋を後にした。。(閑話)



■関連情報
 ▼関宿 旅人宿・石垣屋HP
 ▼東海道関宿 旅人宿石垣屋の宿主日記
 ▼東海道の面影 残す街並み 三重県・関宿(せきじゅく)(読売 Online)
 ▼高速割引ささまでした(My Blog)



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■関宿の景観へ続く
posted by 不惑永遠 at 23:15| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行・紀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月15日

高速割引さまさまでした

『銀も黄金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも』
と詠んだのは山上憶良。
戦争は遠くなってきたが、
『子』や『夫』を亡くした悲しみは消えることはない。
和歌の『子』を『平和』におきかえむかえんかな64回目の終戦記念日。


さて、
久しぶりのエントリーアップ
1日から休みに入り12日に帰着。
忙中閑話』を2週間近く放置していたが、
閑話なくとも閑古鳥なくに至らず」だったようで、
Googleなどの検索結果とブックマークからのアクセスに感謝 !!




2009_明石大橋_1.jpg
明石海峡大橋



ところで、今年の夏休み


田舎で慶事ごとを催すため、思い切って前1週間休みを取って2週間の連休にした。

1日に日が変わった所で、高速割引を利用して車で出ようとしたが天候が思わしくなく雨の高速を走るのはできれば避けたいので土曜出は見送ったが、どうも静岡、名古屋を中心に東海・近畿地方の天候が好転しない。しかたなく2日に日が変わった所で出発。今回は女房殿が同乗していくという。ならばということで、豊田JCTで伊勢湾岸自動車道に分岐し伊勢自動車道に向う途中の亀山ICを下りた近くにある『関宿』を早朝に訪ねる予定とした。


2009_関宿_1.jpgこの『関宿』は日本三関に数えられた東海道四十七番宿場で江戸時代の本陣から旅籠、高札が現存する唯一の宿場町とのこと。写真で見る宿場町並みもキャッチフレーズ通りに味わいを感じるので涼しい早朝の6時か7時頃にゆうゆうう走り着く予定だった。探訪後のルートは、いつもの関ヶ原経由でなく亀山JCTから始めて新名神を走ることができるので願ったりだったのだが、、


ところが、静岡にかかる頃から降り出した雨は名古屋に近づくにつれ強くなり視界が一段と狭くなってきた。浜名湖SAで待機して雨の様子を見るもとても回復するようには思えないので、しかたなく関宿訪問をパスしていつもの関ヶ原経由の名神を走る。本当に変な天気で滋賀県に入ると真夏の青空が開けてきた。振り返り鈴鹿の山並みを望むと重苦しい厚い雨雲が一面覆ている。やがて京都、大阪に至ると真夏といった感じ。意地の悪い天候だが日程にはゆとりがあるので適度にSAやPAに止まりながら淡路を目指す。


2009_淡路SA_1.jpg垂水JCTで神戸淡路鳴門自動車道へ。明石大橋を渡ったところにある淡路SAにいつものように立寄る。海が広がっていてゆっくり休憩するにはうってつけなことと四国出身の小生には、その昔、高松から宇高連絡船を利用していたのと同じで本州を離れると”あー四国だ(正確には淡路島は四国ではないが)”ということで、いまだに何となく落ち着きを感じ始める場所として利用している。逆コースの場合も同様である。


2009_淡路SA_2.jpg今回はSAの中に浴衣姿の若者が多いのに驚いたが、夕方の花火大会見物に昼下がりから集まり始めていたようだ。目ざとく浴衣にサンダルや中にはスニーカーを履いた男の子を見つけて、”ちょっとあれ”と言う女房に、”我々世代に比べれて伝統の浴衣をファッショナブルに堂々と着る今の若者のほうが勇気があるんじゃないか?車を運転してくるのだから許してやれよ。いざという時は車の中においた下駄か草履を取出すよ”。などとたわいないことを話ながら、なんと女房のリクエストで計100歳越えのカップルが車輪のような大きな観覧車?にのるはめに。快晴夏の青空に大阪湾を取り囲む神戸、大阪、右端には関空までが見渡せた。


しばし休憩の後、淡路を縦貫し徳島自動車道へ。途中の吉野川SAで川を眺めながらの温泉につかり汗を落とす。その後、川之江JCT経由で松山自動車道へ。実家着が少し遅くなるのでSAでうどん系の夕食をとり女房の実家へ。


走行距離ほぼ800Km。
運賃はガソリン代を入れて二人で1万円。
新幹線だと5万弱だから高速割引は極めて有効でした。(閑話)



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2009年06月14日

密命21巻・相剋と山寺の謎

密命が出た
待つこと6ヶ月
まようことなく昼休み
ビル地下の本屋で購入


密命21巻_相克_1.jpg佐伯泰英氏の密命シリーズ第21巻『相剋』は、
帯の一節を引用すと《舞台を奥州に移し惣三郎、
清之助、桂次郎、剣に生きる三者の魂がぶつか
り激しく渦巻く緊迫の21弾!》となっている。
来週の通勤読書で読むつもりだが、どのような
相剋が展開されているのか楽しみである。
では、今日はというと、、
実は密命21巻が秘密裏に私に課したもう一つ
の密命? 即ち『山寺の謎をエントリーに書け』
を実行する??


ところで


山寺の謎』とは、偶然とは考え難い何かの意図(糸)で繋がっているのではないかと思いたくなる『奇遇の重なり』を言う。これを連関図に表すと以下のようになる。


密命20巻『宣告』完読(08/12/23)

密命21巻心待ち

5月連休ドライブ旅行(5/1)

詳伝社文庫『密命21巻』 → 『山寺』 ← 『百景を歩く』読売新聞
(6/12)       ↓       (6/12)

MyBlog忙中閑話エントリー(6/14)


『密命』シリーズの冒頭には、目次と密命の主要な登場人物と物語の舞台を示す関連地図がいつも載っている。定番だ。従って、いつもは、ささーと見送るのだが、21巻『相剋』の関連地図を見て驚き・桃ノ木・山椒の木!!

この5月の連休に山形の『山寺』を訪ねたが、その際、時間が許す限り訪ねようと予定した @山寺、A松島、B青葉城が、なんとどんぴしゃ関連地図に載っているではないか! というより21巻『相剋の舞台』になっている。

密命21巻_相克_3.jpg江戸から伸びる奥州街道は東北自動車道と読みかえれば、事前に走行距離やICなどを確認した道路地図にそっくりマッピングできる。5月のドライブをプレイバックしてみよう。
渋滞が解け始めた国見SAで休憩した後、白石ICを通過し、やがて村田ICで山形自動車道に分岐して入る。そこから10Kmくらい山形に向って走った所が関連地図にもある川崎宿の当りで高速のIC名は宮城川崎となっている。更に山間を上って行くとやがて長い笹谷トンネルに出合う。密命21巻で仙台に向う清之助が登場するのは、この笹谷峠である。トンネルを抜け30KmR、40KmRのカーブを下りながら20Kmほど走ると米沢北IC。ここで高速を下り、道路案内に従い山寺を目指す。この間おおよそ10Kmくらい。

こうして山寺を訪ねたのが5月2日。行きの高速渋滞による時間ロスがなければ、とってかえして仙台・松島も訪ねることができたはずだが、それでも、当初のドライブ旅行の目的地が、待ちに待った『密命21巻の舞台』と完全に一致するとは、いったいどうした因果なのか?


偶然にしても、ふつうあり得ないことですよね。
これが、一つ目の奇遇。



折角なので、『相剋』に描かれた『山寺』を246頁から引用させていただこう。。
《二口峠の国境から山形領内に入った所に、平安時代、天台宗の慈覚大師円仁が清和天皇の命を受けて開いたと言い伝えられ山寺があった。『立石寺』である。貞観六年(864)、慈覚大師が入寂すると、この山寺の洞窟に遺骨を安置したと言われ、奇岩怪石の切り立った岩峰のあちこちに寺の宿望が建てられ、修業僧が慈覚大師の遺徳を偲びつつ修行に明け暮れた。

そんな山寺の一宿坊に頭に白いものが目立つようになった武芸者が住むようになり、一日じゅう座禅を組んで過ごしていた。時に草履掛けでで山に入り、二口峠の御境番所を避けて伊達領内に入り、二口渓谷で独り修行に励む神保桂次郎の姿を遠くから眺めては、また峠を越えて山寺に戻っていた。 金杉惣三郎だ。》


わが時代小説のヒーロー金杉惣三郎が山寺(立石寺)に現れた
『密命』ファンの小生は、そこに展開される物語を読むだけでも楽しい限りなのだが、今回は舞台まで合わせてくれた。しかも、ほんの一ヶ月前、小生自身が歩いてきた場所だ。


なんという偶然?これが、二つ目。
そして、更に奇遇は続く。。



平成100景_山寺_1.jpg密命21巻が本屋さんに並んだ6月12日の読売新聞『百景を歩く』というコラムに『山寺』が紹介された。
ふもとの商店街代表として100年近く続く食堂『対面石』の3代目店主の話が載っている。小生の飛び込みの一泊依頼に気持ちよく歓待いただいた旅館『高砂屋別館』の大女将さんと若女将さんにここで改めてお礼を申し上げよう。

平成100景は、読売新聞が創刊130周年記念事業として新時代を代表する100カ所を「平成100景」として認定したもの。この100カ所もの中から一つだけ選ばれ、『密命』の発売日(6月12日)に記事となり、内容が同じ「山寺」を扱ったものとなる確率はどのくらいだろうか?何か糸(意図)の通じる者同士が背後で連携しているのでなはないかとすら思えてくる。


まさに奇遇三重奏?山寺の謎』である。。(閑話)



連休の最後に書いたエントリー『みちのく渋滞走行記(前編)』の後編を写真中心にまとめて、終わりとする。


山寺_4.jpg

山寺(立石寺)


山寺_入口初段.jpg山寺_本堂.jpg山寺_18.jpg


山寺_5.jpg山寺_6.jpg山寺_29.jpg


山寺_7.jpg


山寺_11.jpg山寺_10.jpg山寺_12.jpg

われ一句 詠まんとするも 言葉なし
山寺や ああ山寺や 山寺や


芭蕉


山寺_16.jpg山寺_17.jpg山寺_9.jpg


山寺_14.jpg山寺_15.jpg

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

麓の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、
土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物の音きこえず。
岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂莫として心澄みゆくのみ覚ゆ。


芭蕉_まゆはきの句_1.jpg芭蕉_まゆはきの句_3.jpg

まゆはきを俤にして紅粉の花

林檎の花を見ようと山寺を出て天童市の方向に農道を走っていると、
ふと道脇に見つけたまゆはきの句碑

山寺_26.jpg山寺_25.jpg林檎の花.jpg



■関連情報
 ▼みちのく渋滞走行記(前編)(MyBlog)
 ▼佐伯泰英『密命20巻 雪中行』(MyBlog)
 ▼山寺立石寺(山形旅行)


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2009年05月07日

みちのく渋滞走行記(前編)

連休も終盤へ
珍しく家の周りの片付けをしよう
と意気込んで朝から動いていると
雨になった。お天道様は小さいお
家そんなに慌てて何をすると笑っ
てぐーたらをおすすめのもよう。


林檎の花_2.jpg



ところで、


この連休は、高速料金の値下げも相まってか、高速道路はいずこも大変な混みようのようですね。私も連休中盤を利用して車で山形を訪ねてみた。会津若松までは行ったことがあるが、そこから北は初めて。同じ行くなら高速料金1000円の適用を利用しなきゃということで、5月2日未明ようよう東の空が白み始めた4時過ぎに家を出て『閑さや岩にしみ入蝉の声』で有名な山形の山寺を目指した。


環八→外環道を経由して東北自動車道に入る。川口JCTから仙台手前の村田JCTまでが314.5Km、そこで山形自動車道に分岐して山形北ICまでが41.9Km。高速の前後を入れて走行距離はおおよそ片道400km。4月はじめに初乗りした後、一度も乗ってない新車を駆ってみちのくへひとっ走り。悠々昼前には目的地に着く胸算用だったが、いやいやなんとも東北道下りの渋滞はすさまじかった。

蓮田SAを過ぎて羽生PAの手前位から早くも13Kmの渋滞情報が出始めたが、これはこの後、延々と続く渋滞地獄の序章に過ぎなかった。宇都宮、福島近辺を中心に羽生SAから国見SAまでのほぼ全域で最長50Kmの渋滞。求めた高速を走る爽快感はもろくも吹っ飛んだ。羽生PA→大谷PA→阿武隈PA→安達太郎SA→国見SAと2時間くらい走っては30分の休憩をとりながら、ひたすら数珠つなぎの渋滞走を耐える。この間約240Kmに10時間15分かかった。時速にすれば約23Km/hくらい。


白河の関_1.jpg距離にして200Km。目的地までのちょうど半ばにさしかかった11:20頃に阿武隈PAに入ると正面脇に『是よりみちのく 白河関』と記した碑と奥の細道白河の関での『卯の花をかざしに関の晴着かな』の句碑が目に止まる。渋滞で得たラッキーはこれくらいかな。芭蕉はこの関で『心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。。』と意を決してみちのくへ歩を進めている。

白河の関_2.jpgさしずめ小生は『渋滞に心もとなき時間重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まらず』 既に阿武隈PAで正午を迎え、この先、更に渋滞走となると山寺には一体何時に着くのだろう?宿はあるかな?いっそここでUターンして今日は帰るか?また別の日に再チャレンジするか? 『渋滞に行くか帰るか心惑うや白河の関』である。


白河の関_3.jpg白河の関は蝦夷に対する防衛拠点として五世紀に設けられた古代の関だそうで、俳句などでは白河が奥州の入り口に当たる歌枕となっている。移動手段が徒歩であった古代の歌人は『都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関』『都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関』などと季節のうつろいをこの関で詠んでいる。多くの古歌を踏まえたとされる芭蕉の紀行文にも紅葉が出てているが、これが明治になると大きく変わってくる。

明治に東北を旅した子規の『はて知らずの記』によれば、

《常陸の山脈東南より来り岩代の峰西北に蟠る。那須野次第に狭うして両脈峰尾相接する処之を白河の関とす。昔は一夫道に当りて万卒を防ぐ無上の要害奥羽の喉元なりしかとや。車勢梢緩く山を上るにこのあたりこそは白河の関なりけめと独り思うふものから山々の青葉風涼しくて更に紅葉すべきけしきにもあらず。能因はまだ窓の穴に首さし出す頃なるをきのふ都をたちてけふ此処を越ゆるも思へば汽車は風流の罪人なり。》と記されているらしい。 

汽車見る見る 山をのぼるや 青嵐
みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて
その人の 足あとふめば 風薫る


『汽車は風流の罪人』なら、現代の新幹線や高速を走る車は何と例えればよいのか?更に高速に移動する手段を手にした現代人は 時空を駈けるがごとく短い旅を数多くできるようになった。これ日常と異なる趣きをもとめてのことと思えば『高速な乗物は風流もどきの演出者』とでも言えようか?? m(>д<・.)m (無理はやめて駄洒落をひとつ)


みちのくへ 走りに行くや 新車駆り


さて、目的地の山寺であるが、今日は時間がない。
後日、みちのく渋滞走行記(後編)として書くことにしよう。。(閑話・閑話)



■関連情報
 ▼みちのく渋滞走行記(後編)→ 山寺を写真中心で纏めています、



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2008年12月27日

上海雑感 束の間の上海美術館

成田からのリムジンが湾岸道路から進路
を箱崎方向へ分岐した当りから左側に高
層マンション独特の夜景が目に入ってく
る。部屋毎に色調の異なる小さな明かり
が碁盤の目の様に規則正しく灯り高層マ
ンション全体を夜の闇に浮かび上がらし
ている。。。出張帰りに見るこの景色は
あっという間に遠ざかるが最近楽しみの
一つとなっている。。


上海外灘遠景_2.jpg霞む上海外灘



上海美術館_12.jpg
先週土曜、今年最後の中国出張から帰ってきた。
週半ば最終便で上海に渡り週末には帰ってくる相変わらずの短期出張。ほぼ3ヶ月ぶりの上海は夜の照明を少し押さえ気味?かとも感じたが定かでない。慌ただしい人の波は世界的金融危機の影など感じさせない相変わらずの猥雑な熱気に溢れていた。2日ともハードにお仕事モード。最終日チェックアウト前の束の間の時間を利用して上海美術館を訪ねてみた。何度も前を通っているのだがまだ入ったことがなく人気の少ない方がよいので覗いてみた。


上海美術館の建物は1933年、上海租界の競馬場のクラブハウスとして、パークロード(現在の南京路)に面して建設された。租界の消滅後は上海博物館や上海図書館として使用され拡張・改築された。上海博物館が新しい建物に移転した後、2000年3月18日から上海美術館が使用、4,000点以上の美術品を所蔵している。近代美術・現代美術に関する展覧会を企画するほか、二年に一度開かれる大規模な国際美術展・上海ビエンナーレの会場となっている。スタバ人民公園店は美術館のすぐ隣り。。


上海美術館_9.jpg常設の作品が見えるかと期待したが、ちょうど万里長城西部情展と記念改革30周年上海写真展をやっていた。入館料は20元。1〜2階の万里長城西部情展、3階の記念改革解放30周年上海写真展を一通り見た後、館内の階段踊り場脇を利用したカフェでしばし煙草休憩。その後Uターンして一番印象に残った一点『大地の唄』をじっくり眺めて美術館を後にした。。





上海美術館_1.jpg
大地の唄



上海美術館_2.jpg上海美術館_5.jpg上海美術館_3.jpg




上海美術館_6.jpg上海今昔_1.jpg上海美術館_7.jpg
上海外灘今昔



■余話

上海_書店_1.jpg名前は分からないが上海市内の大きな本屋さんの外国文学のフロアーでは壁際や柱の部分の床に書籍がどっさり積み上げられていた。売れ筋なのだろう。よく見ると日本の現代小説もそれに混じって健闘している。一番目立つのが中国で出版されると常にベストセラーになると言われる渡辺淳一氏の小説で数も多く5、6冊が山積みにされていた。


上海_書店_2.jpg下端の写真は今年の6月末に『あじさい日記』中国語翻訳版の出版記念か何かで渡辺淳一氏が上海を訪問した際の上海デイリーの記事。。
『流星の絆』や『ガリレオの苦悩』などで今年の書籍ベストセラー上位を占めた東野圭吾氏の『白夜行』と岩井俊二氏の『ウォーレスの人魚』も同様に山積みされていた。。


上海_書店_3.jpgいずれも男女の愛を扱った作品。検閲発禁なんて野暮はなく、この当りの関心は国を超えて普遍ということでしょうか。。(閑話)







■関連情報
 ▼上海美術館(Wikipedia)
 ▼上海美術館(SHANGHAInavi)
 ▼渡辺淳一オフィシャル・ブログ
 ▼白夜行(TBS)
 ▼ウォーレスの人魚(角川文庫)



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2008年10月25日

箱根1泊ミニドライブツアー

円急騰株価はバブル後最安値寸前
株安円高が並行的に進む不穏な経
済の雲行き同様に週末土曜は曇り


先週末、快晴に恵まれる中、1年ぶりに箱根に行ってきたのが正解だった。ワイフ(サイフの口が堅くなった女房を言う?)と末娘を乗せての1泊ミニドライブ。あーのこーのとおんなふたりそろうとかしましいが、あっしはもっぱら従順なあっしーを任じての家族サービスでやんした。。


箱根仙石原_1.jpg遅めの午後2時に家を出て御殿場を降りた後、乙女峠のトンネル入口手前の峠の茶屋で富士を眺めてひと休憩。その後一気に坂を下って千石原へ。車道脇はすすきを観る人の長蛇の列。これ千石原すすき野銀座の出現かと。。光を浴び風にそよぐすすき野原は白く波打つ海原のようにも見える。やがて5時を回る頃、北に流れる雲は赤く夕焼け、外輪山に日を遮られ始めたすすき野原は秋の釣瓶落とし。

一路、馴染みのビラへ車の舵を取る。食事はいまいちだが部屋作りがよくて安く利用でき何より白濁した温泉が最高なのだ。着いて1回、寝る前に1回、朝に1回、満室も客室が限られるので広い湯船で気兼ねなく一人自由に湯浴みくつろぐ。。


箱根_木漏れ日1.jpg翌早朝は木漏れ日に透けて緑に輝くビラ周辺の木立の中を少し散策した後、ふたりの意向通りに箱根ガラスの森へ。指輪展が今月末迄とか、、パンフには『愛の扉ひらく指輪展』〜リングに込められた誓い〜2008年特別企画展とある。

箱根ガラスの森_1.jpg朝の中なら人も少ないかと期待したがシーズンなんですね。混んで思うにまかせぬ見学は余り好きでないが、それでも『ゴールド・ポージーリング』〜手も心も固く結ばれる 死が我らを分つまで〜からマリー・アントワネットの遺髪を納めたなんとかなどなど、その気になって眺め込む。。

展示された80余点は世界有数の指輪コレクター橋本貫志氏の所蔵品とか。。指輪もしかりだが只々その財力に小生なんぞは驚嘆する。。ちなみに『ポージーリング』(posy ring)とは、短い詩や愛の言葉やメッセージをリングの表面や内側に刻んだ指輪のことを言うらしい。


箱根ガラスの森_2.jpgそうこうしているとやがて小さなホール状の部屋でロシア籍3人よりなるCrystal trioのガラス楽器の演奏が始まった。グラス・ハープ、ベロフォーン、グラス・パンフルートなるガラス楽器から出る音色は7オクターブにわたるらしい。吹いて音を出すのは分かるが、指先でグラスを触っているようないないような、それでいて澄んだ音色が出るのには、なにかマジックを見ているような感じで不思議だな?なんで?なんで?と思いつつ15分余りの演奏を堪能させてもらった。。(閑話)


Crystal trio_CD.jpg珍しかったので演奏後の直売で買ったCD
Crystal Musicの歴史や楽器の説明、trioの演奏活動等は彼らのサイトに紹介されている。指輪展もCrystal trioの演奏も11月初旬迄やっているようなので箱根に足を伸ばされた折には立寄ってみるのもいいかもしれません。


■関連情報
 ▼箱根ガラスの森美術館(公式サイト)
 ▼箱根ガラスの森+Web
 ▼Crystal Trio



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2008年05月30日

シンガポール束の間雑感記(1)

Singapore

Singapore 002.jpg

Singapore 008.jpg

Singapore 006.jpg

夕方、ホテルにチェックインした後、近くのボート・キーまで川沿いを散歩し、ローカル・フードにチャレンジ。川に面して同じような飲食ができるお店が2,300mくらい続く。。手前側四分の一くらいは白人が占有、真ん中あたりがインド系、その奥が中国系?。。お店を利用する客層に微妙な違いがあるのが印象的。。どの店も客の呼び込みをしているが、しつこくないのがなにより。川面を渡るか夜風に吹かれながら食事を楽しむ。。

Singapore 007.jpg

Singapore 003.jpg




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2007年12月16日

ベトナム・ハノイ束の間雑感記

0712081905.JPG時間に追われる日々が続く。先週、ベトナム・ハノイを訪ねたが振り替えるまもなく1週間が過ぎようとしている。日曜を利用して携帯で撮ったスナップを整理しながら少し振り返ってみた。。うまくいくか仕事面のプレッシャーはさておき、まだ見ぬものへの好奇心は旺盛。ベトナムってどんなとこかな?木曜夕方、香港からハノイ空港に降り立ち手配されたリムジンでホテルに向かう。少し走ると田園風景に牛の群れが草を食む光景が目に入ってくる。砂糖黍?か整然と植えられた畑もあれば休耕地?か草だけが覆い茂っているような田畑も多い。やがてキャノンの現地工場の赤い字の看板が車の右側に現れ遠のいていく。

0712081920.JPGリムジンは更にハノイ市街に向けて走っているのだろう、細く高いベトナム独特の民家が目に付いてくる。どれも3、4階作りになっている感じ。しかし、道路脇には汚れた掘っ立て小屋のような一群もめだつ。戦火で家を失った人々が復興に向かい始める終戦直後の状況を思い浮かべるような光景だ。同時に2車線の外側の車線にバイクが目立ち始めた。1人乗り、2人乗り、子供を前に抱えたママサンライダー。中には三人乗りも、男女カップルも多い。バイクで風を切ることもあってか皆ジャンパーか長袖姿。こうなると車は追越など車線変更は危なくてできない感じ、40Km?前後の速度で内側車線を走り続ける。

0712082049.JPGリムジンの外を流れる光景を上海の浦東から市街に向かう光景に比べるとベトナムの経済状況は、20〜30年ビハインドかなという感じを受ける。バイクの数が一段と増え、市街地に入ったのだろうと思うと目の前にSOFITEL Plazaがどんとたっている。いいホテルだ。白人の観光客が多い、日本人の団体も少し。中国、インド系はほとんど見かけない。こうやてみるとホテルの外と中は別世界。植民地時代の支配被支配の環境がそのまま残っているような錯覚をふと覚える。。

0712090859.jpgホテルの裏側はタイ湖(西湖)が、部屋からはホテルの脇をまっすぐに伸びたイエン・フー通りが見下ろせるが、ホン川(紅川)は見えない。川や湖が多いので早朝は靄かと思ったが大気は濁っている。ホテル到着の木曜夜から土曜の夕方まではお仕事モード。。

0712082342.jpg仕事を終えた土曜の夕方、翌朝チェックアウトまでの束の間を利用して、ホテルからタクシーで15分位にあるハノイの中心街を歩いてみた。携帯写真ファイル名が撮影時間になっているので、2時間の時差補正をするとタクシーでおりたホアンキエム湖畔のスタートが17:05、ハノイ大教会を見た後、しばらく雑貨屋や民芸品店など覗きながら猥雑な熱気に沸く市街を歩き、再度、湖畔北側に戻ってきて湖を見下ろせるCityCoffeeのテラス席からゆきかうバイクバイクの流れを少し冷えてきた夜風にあたりながら見下ろしていた。ハノイの歴史からすれば瞬間の立ち寄りなれど、これがハノイだなどと感じたつもり?になって21:30頃ホテルへ。その足でホテル傍の西湖に突き出した船上レストランでベトナム料理にチャレンジ。部屋に帰ったのが23:00頃か。。

中国上海あたりのあくの強い押売りや物乞いが一切なく、人々はつつましく謙虚な感じがして中国人に比べればずーと日本人の感性に近いのではないかと感じたりもした。。。後付にベトナムのことを調べて読んでみて逆に見聞きに照らし合わせてみたりして、なんだか本末転倒だし、100分の1も見聞きしてないが、付録としてはこれでよしとしよう。。

■参照情報
 ▼Cafe Saigon(ベトナム旅行と生活文化の情報発信サイト)
 ▼ベトナム経済入門(ドイモイ経済小史
 ▼Vietnum Digital Gallery
 ▼HOTNUM!
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2007年11月15日

駅弁 桃太郎の祭りずし

Kusabana_1.jpg昨日に続き新幹線関連のエントリーをもう一つ。田舎から帰りの夕方、岡山で新幹線のぞみに乗り換え少し走ったところで車内販売がまわってきたので、軽く夕食代わりにとコーヒーにサンドイッチを買おうと声をかけたが、あいにくサンドイッチが切れていた。弁当なら岡山のちらし寿司に後2品、3品ワゴンに揃えているそうだが、3っつ並びの一番内側(窓側)に座っていたので、説明が今ひとつよく聞こえない。というか、弁当の中身が推定できないのでちらし寿司でいいですと買ったのが『岡山名物 桃太郎の祭りずし

箱の表紙は桃太郎。よくみかけるやつだが食べるのは初めて。弁当の容器はピンク色で桃をかたちどっっている。間違いなくこれなら桃太郎弁当or桃太郎寿司だねと頭の中でつぶやきながら、なにげなく外箱の裏側の小さな文字の文章を読んでみると岡山名物『まつりずしのいわれ』が書いてあった。

Okayama_Susi_1.jpg 江戸時代の初め、備前と呼ばれていた岡山を治めていたのは池田光政というお殿様でした。その頃、岡山の財政はけっして豊かではなかったので、このお殿様は、いろいろな倹約令をお出しになりました。
 そのひとつが、毎年行われていたお祭りのお御輿やお囃子の廃止で、さぞかしこれではお祭りの気分も何もあったものでなかったことでしょう。備前の喰い祭例といってちらし寿司を作ってお客さまに振舞う事がお祭りの一番の楽しみになってしまったのです。
 そんなものですから、お祭りの時のちらし寿司は年々豪華になる一方。しまいには一升のちらし寿司を拵えるのに、一両もの大金を惜しげもなくかける商人も出て寿司一升、金一両とまで云われるようになりました。地元ではちらし寿司の事を岡山寿司とかばら寿司などと呼んでいますが、私共ではこのちらし寿司がお祭りとは切っても切れない物であると云うところから 祭ずし と命名させていただき、現在では広く全国の皆様にご賞味いただいております。
(お弁当箱裏の記載を引用)

岡山寿司は、江戸時代に備前を治めた池田光政の倹約令に端を発しているとか。ならば光政寿司でもいいのだろうし、ももたろうならお腰につけたきび団子だろう?ってな疑問もおきるが、まっ、光政寿司と呼ぶよりは、ももたろうのほうが親しみよく名も通っているし商魂たくましく業者にかかれば、(岡山の名物キャラももたろう+伝統的なお寿司)=(桃太郎の祭りずし)ということにあいなりか?食べてみるとあっさりした寿司味でおいしかった。大河ドラマで仮に池田光政が主人公にでもなってブレークすると光政公縁の祭り寿司とでも銘打った特別バージョンがでるのかな??池田光政もどこかで笑っているかも???(閑話)

■関連情報
 ▼シックスシグマの弁当配達業

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2006年03月11日

浦賀滞在記(5) 三浦半島三句

何年か前、仕事の関係で三浦半島にある浦賀という町に滞在したことがある。

仕事で浦賀に滞在することになって3ヶ月
週末、浦賀泊まりの折りはできるだけ海の匂いを嗅ぐことにしている
故郷は最後に浜のつく海のある町だが一番長い東京も海は関係ない。
3ヶ月で三浦半島の海側をだいたい走破した。
下記は、つれずれに詠んだ三浦半島三ヶ月三句である。

開国の  怒涛砕けし  浜静か    8月22日早朝 久里浜にて

祭灯の  揺れて夏ゆく  浦賀湾       9月12日宵 浦賀にて

釣り人や  岩鳥の如し  城ケ島    10月4日早朝 城ケ島にて


 

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2006年02月11日

浦賀滞在記(4) 浦賀の夏祭り

祭灯の 揺れて夏ゆく 浦賀湾

9月12日、13日は浦賀の夏祭であった。

紅白縞模様の細長い提灯が軒先の高さに長く続き、夜が深けると、

今は昔、忘れてしまった灯りが行き交う人々をほのかに浮かび上がらす。

平日は、宵とともに静まりかえる浦賀が町を挙げて燃える夏祭。

 同じ日、東京の自宅の方でも、第六天神夏大祭があったが、

今年は、浦賀の夏祭を初めて見せてもらった。




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2006年02月04日

浦賀滞在記(3) 東浦賀史跡散策


東浦賀史跡散策
週末浦賀泊まりの早朝散策は東浦賀へ

浦賀工場正門過ぎ左山側巨大なライオンズマンション
山肌に食い入る如き構造はまさに陸の要塞の如し。広重浦賀図との対比の妙。
八雲神社入口より宮政酒店の間が江戸時代の豪商・宮原屋与右衛門の屋敷跡。
工場の所を右に入り工場塀ぞいに進む。車で行く場合はここを通る。石油スタンド横は直進入不可。


専福寺

 小林一茶の碑。初恋の人寿女が眠る由。xxY年6月2日房総より来訪とのこと。

東林寺

 階段初段横に江戸屋半五郎寄進石塔有り。この人物に興味有り。
   半五郎は江戸浦賀繁栄期の遊郭経営者。思う所あって、遊郭を廃業遊女
   を全て解き放ち自身は仏門帰依する。東西浦賀神社への寄進も多く残る。
   この寺への寄進石塔左側面には俗称半五郎、戒名は大誉xx向信心xxとある。
 京セラ稲森さんとは少し違うが小説のモチーフになりそな人物。
 更に階段を登ると中島三郎助父子の墓。俳人中島木鶏であり、浦賀との関連
 は言うに及ばず。幕府側要人として五稜郭にて戦死するも、忠魂碑をもって
 浦賀に帰還する明治維新後の政治情勢も又おもしろい。


徳田屋跡

 渡船乗り場から15m程度の所にある民家が跡。象山、松陰が黒船来航を聞き、
 即座に浦賀に出向き投泊した旅篭。当代気鋭の志士達が夜を徹して熱き議論
 を交わした余韻やいずこ。象山は大砲が設計できた唯一人。

東叶神社

 社務所裏に勝海舟使用の井戸有り。正面階段途中左に古い蘇鉄があり、
   鎌倉時代に伊豆方面より移植したものとか。本殿左横を周り更に山を登る階段
 に足を進めると左脇に芭蕉の句碑あり。苔むしているが下記1句が読み取れる。
 冬浦賀湾の情景を言い得て妙。さすが芭蕉なり。
 わが句 ” 名月や白き帆船浦賀湾”とはどうか。 俳句は心にあり表現は技能。
 などと嘘ぶくもまたたのしからん。

浦賀城跡

 しばし堪能し更に頂上へ向けて登る。途中に古い石垣あり。頂上は狭いが平坦
 で海舟断食の跡、浦賀ドッグ殉職者の碑あり手を合わせ礼。
   その先より灯明台、久里浜沖、遠く房総半島が見渡せる。
 三浦一族の見張場うなずける。象山の妻は確か海舟の妹であり結婚を祝して
 海舟より望遠鏡を送られた。その望遠鏡をもって鴨居山より久里浜沖の黒船を
 望み、大砲窓が全開の臨戦態勢を読み取ったとあるが、それはこの場所では
 なかろうか。かもめ団地側に過ぎると、どうもそのような山は見受けられない。
 しばし、遠望を楽しみ下山する。

コーチヤ

 マリンポートコーチヤ良いところを見つけた。高知造船跡近辺。海を眺めながらの
 食事が可能。コーヒを頼みしばし海を望みて煙草を吹かす。最寄りで落着ける喫茶
 を探していたが、ここで充分。横須賀、浦賀に各アンカーポイント設置。収穫なり。

 

    丹よ起丹よ起と  帆ばしら寒き  入江哉  芭蕉


    夕立の  祈らぬ里に  立ちにけり        一茶


    朝立の  古びた里に  立ちにけり       駄洒落




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2006年01月28日

浦賀滞在記(2) 浦賀の歴史

浦賀泊り6日早朝、灯明堂下の海辺を散策し、その足で文化センターを訪ね、まず浦賀概史の資料を入手する。下記は本日の収穫。


・浦賀奉行与力中島三郎助は当時の江戸俳壇においても”俳人中島木鶏”の名を欲しいままにしていた俳人であること。
・幕府海軍の興立に参加した岡田井蔵は実は浦賀から出ていること。 岡田井蔵は”人切り井蔵”と呼ばれ土佐出ではなかったのか?
・久里浜で目に留めた”尻こすり坂通り”と南田節操(?)の関係。 彼は南画の大家にして歌人。
・中島三郎助と海の先覚者たち
・浦賀奉行歴代一覧(148年間で51名:ペリー来航時は松平伊予守信武)
・浦賀湊の発展史「海と湊と造船所」、他

 

■浦賀概史

−原始時代−

浦賀には、数多くの古墳や遺跡が発見・発掘されており、浦賀を取り巻く丘のような山々が、原始の時代の人々の生活の場であり、 古墳時代には、相当な数の人々が生活しており、人々を統率する権力者がいたことを覗い知ることができる。

−古代−

8世紀頃になると、小さな集落がいくつか集まった「郷」と呼ばれる地方行政区画ができ、奈良正倉院にある「封戸祖交易帳」には、 「御浦群走水郷」の戸数と田畑の耕作面積が記載されている。
走水郷が、現在の走水をさすのか明確ではないが、ともかく、この地域が古代統一国家に組み入れられていたことが分かり、都(奈良) へ租税を運ぶため、また、中央の役人の往来などのために交通路が開かれてことも分かる。そして、交通路は古東海道と呼ばれ、「古事記」や 「日本書紀」にでてくる日本武尊の東制の路とほぼ一致している。また、同じ頃、 衣笠には国分寺と同じ規模を持つ宗元寺が建立されていることなどから、走水郷が海の玄関口の役目をしていたことが想像でき、 古代における浦賀の意義は大きなものであったと思われる。
平安時代につくられた「和名類X抄」という我が国初めての百科辞典のなかには、三浦半島に5つの郷があったことが記されている。御浦 (田浦周辺)、田津(田戸周辺)、氷蛭(三浦海岸周辺)、安慰(武山、大楠周辺)となっていますが、浦賀はどうも田津郷に入るようです。
また、なぜ走水郷が姿を消しているのか疑問の点もいくつかあります。この平安時代の終わり頃に前九年の役で功績があった、村上為通が、 その恩賞として三浦半島を領地とし、衣笠に城を構え三浦氏を名のり、三浦半島に武士の時代の幕が開けられた。

−中世時代−

為通から数えて4代目の義昭明は三浦半島を近親者で固め、三浦にその人ありと言われるほど強い勢力を誇った。三浦一族は、 伊豆に流されていた源頼朝が平家妥当に立た時から源氏に加担しています。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからの浦賀は、 金沢や榎戸と並んで重要な港の役割をしていました。
その後、室町時代にかけての、浦賀を知る資料は現在ありませんが、現在あるお寺の大多数が開基していることなどから、 人々の生活があったことだけは確認できる。そして、戦国時代に入ると、小田原の北条氏が東叶神社の裏山に、暴走の里見氏に対する砦・ 浦賀城を築き、三崎とともに水軍の基地としました。

−近世時代−

徳川家康が江戸に居城を移すと、三浦半島は直轄地となり、代官長谷川七左衛門が愛宕山の下に陣屋を構え、三浦半島一円を支配しました。 家康は、逸早く浦賀の港に目を付け、ここに外国の商館をつくり、貿易港として利用しようと考えていました。この時代の外交顧問が三浦按針で、 彼が乗っていた「リーフデ号」の修理は、北条氏の支配下時代から培われていた、浦賀の船大工の手で行われました。
寛永年間(1620年代)になると、三崎と走水に関所が設けられ、三崎が上り船(関西方面行き)走水が下り船(江戸に入る) の検査を行いました。奉行は、向井将監忠勝が兼務をしており、奉行所は御所ケ崎にあったと思われる。

−干鰯問屋の最盛期−

同じ頃、関西から鰯を求めて、たくさんの漁船がやってくるようになりました、これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、 綿作りに最適肥料が「干鰯」であり、その鰯を求めてのものでした。
鰯を干鰯に加工し、関西に送り出す干鰯問屋が東浦賀に建ち始め最初、15戸あった問屋は、最盛期には倍に増え、 一時期は全国の干鰯商いを独占するほどにまでなっていました。
こうして、干鰯問屋が大きくなれば、当然船の出入りも数を増し、これらの船の航海安全をはかるため、幕府は港の入口に灯明堂を慶安元年 (1468年)に建設し、以後明治5年までの223年に渡り、灯をともし続けました。

−浦賀奉行所の設置−

江戸の発展にともない、全国から江戸に向けて物資が船で入ってくるようになると、三崎・ 走水両奉行所を統合して作った下田奉行所では対応できなくなり、享保5年(1720年)浦賀へ奉行所を設置、「船板書」を於いて、 江戸へ出入りする船を全て、ここで検査する体制を整えた。浦賀に奉行所が設置されるにあたっては、町(特に東浦賀)を挙げて、 干鰯問屋の生活権がおびやかされることで、設置反対の運動があったことは注目に値する。結局、 西浦賀の先端にあたる現在の西浦賀川間町に決着した。江戸も半ばを過ぎる頃になると、浦賀沖にしばしば外国船が姿を見せるようになり、 鎖国政策の我が国にとって、外国船から江戸を守ため、浦賀奉行に「海防」という大きな役割が加わわった。更に、文化年間には会津藩に命じて、 はじめて台場が築かれ、以降、川越、彦根、熊本、長州と三浦半島はめまぐるしく、各藩が警備にあたった。 なかでも台場を作ることに最も苦労のあった会津藩にゆかりのある人々の墓が今でも鴨居を中心に数多く残っている。

−浦賀文化栄える−

文化・文政(1804−1818)の頃になると、浦賀は最盛期を向かえ、江戸や大阪などから文人墨客が頻繁に訪れるようになり、 それに呼応して俳諧・漢詩などを学ぶ人々が増え、これ以降幕末まで浦賀文化の花が咲く時代となった。この中で、 代表的な人物は浦賀奉行与力の中島三郎助といえます。彼は幕史としても、ペリー来航の際、最初に黒船に乗り込み、 折衝にあたるなどの敏腕ぶりもみせつけた。そして町の人々にも俳諧を通じてとけこみ、「大衆帰本塚」の碑文を書くなどして、 町の人々からも敬慕された。

−明治時代−

明治維新をむかえた慶応4年(1868)をもって、浦賀奉行の関係施設は新政府の手に移管され、奉行所の建物は取り壊されたが、 船改め業務は明治5年までつずいた。新政府は現在の行政センターの所に浦賀役所を設け、主に佐賀藩の武士が勤務した。
明治3年には東西の浦賀が合村され浦賀村となり、その後9年には浦賀町、22年には市町村制の施行に伴い、大津・走水・ 鴨居を併せた新浦賀町が誕生した。
明治がすすむと新政府の施策を取り入れ新しく生まれ変わってきたが、明治初期の人力車の保有台数が群を抜いて多いことなどから、 まだまだ三浦半島では中心的な町であった。
24年に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が立てられた際、集まった人々の声で浦賀にドッグの設立が決まり、浦賀は造船の町としての歩みを始めた。 しかし、江戸時代依頼の浦賀の町の様相を大きく変えたのは日露戦争時の「塩の専売制」でした。浦賀を代表する商品は東の「干鰯」西の「塩」 であり、特にペリー来航の前後からの塩の商人として成長してきて、 明治期には浦賀の商人の代名詞でもあった大黒屋の倒産は町への影響も相当に大きなものであった。 これ以降は商業中心の町から工業の町へと変って行った。

 

上記は、浦賀文化センターで頂いた「私たちの町・浦賀」をそっくり引用したものです。既に手元に資料がなく、 時間も経っているので少し定かではありませんが、浦賀という町の歴史が手に取るように分かった良い資料であったので引用させて頂きました。

▼参照:浦賀文化センター2F展示室 http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/sisetu/fc00000087.html
▼引用:同資料「私たちの町・浦賀」郷土史家 山本詔一氏 解説




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2006年01月18日

浦賀滞在記(1) 黒船来航と浦賀

何年か前、仕事の関係で三浦半島にある浦賀という町に滞在したことがある。

いざブログを書こうと思ってもなかなか書けないので、 当時、週末の休みを利用して浦賀周辺を散策した折に書き留めた雑記を載せてつなぎとする。。。。。まずは何より継続することに注力しよう。


開国か攘夷か...


幕末日本を激しく二分した政治の嵐の中、ひしひしと迫る外圧に対してなんらの対策を講じることもできぬまま、 ペリー艦隊が浦賀沖にその姿を現したのは嘉永六年(1853)6月である。


泰平の眠りをさます正喜撰たった4杯で夜もねられず


ペリーはアメリカ大統領の親書を幕府に受け取らせ、来春の再来航を約束して日本を去った。
開国か攘夷か、祖法を守るべきか破るべきか、時の青年老中阿部正弘は決定にあたり、諸藩主・幕吏に対策案を諮問した。これについては、 今日なお評価の分かれるところ。正弘にすれば広く意見を求めることで、国内勢力の協調を計ったのであろうが、これが幕府の威信を弱め、 諸藩を幕府から離反させる事態に繋がったことは否めまい。安政元年(1854)ペリー艦隊は再来航し、幕府に開国を強要した。3月3日、 日米和親条約12ヶ条が締結され、長く祖法として堅持されてきた鎖国政策は、ついに外圧により破られたのである。

ペリーが来航し上陸した地は浦賀から岬を一つ越えた久里浜である。
現在、久里浜港に面した中央やや西側にペリー上陸の記念碑が立ち、湾にそそぐ平作川の河口には開国橋がかかり、 平成の一隅に開国の縁を刻んでいる。尚、歴史書には久里浜という地名をほとんど見ない。 現在の久里浜を含み浦賀奉行が所轄する領地全域を浦賀と称したのであろう。

   久里浜 <現在> 久里浜2 <来航時>

港は思ったより小さく英字のCの様な形をした全長1Km程度の中央部に砂浜を持つ良港である。湾の左先端に落ちる半島や海は、 当時と変らぬ光景であろう。沖に投錨した黒船から上陸するには、波静かなこの入江浜が最適であることが一見して覗える。

   久里浜3 <上陸記念碑>

記念碑は港に面した小さな公園の中央に立っており、伊藤博文書とする北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑の文字が刻まれている。 1941年明治34年の建立。 碑の右後ろに小さな2階建てのペリー記念館があり入口を隔てて左右に浦賀奉行XXYYYとペリーの胸像が配されている。 両者に人物の風貌あり。

   久里浜4<伯理>  久里浜5 <浦賀奉行>

公園を入った直ぐ左脇には、かの名句「泰平の眠りをさます...」が刻まれている。
憂国攘夷の志士から恐いもの見たさの漁民農民まで、突如現れた黒船を見分する為、騒然とする久里浜に、かの吉田松陰もいたはずだ。

   吉田松陰 <松陰>

黒船来航を藩邸で知った松陰は、ただちに浦賀にむかっている。
松陰日記には「余、及ち書を投じて起ち、袂を振って出で、将に浦賀に赴かんとす。.略」
松陰が浦賀に着いたのは、翌5日の午後十時ごろだった。とされる。

黒船来航は、日本史を近代に屈折させるまさに運命的な事件であった。
浦賀の現地へ、吉田松陰という若者が駆けつける光景もまた記憶されるべき歴史のひとこまといえるだろう。それは、 松陰が日本が幕末の疾風怒涛の中に、近代化に向けて飛ぶが如く走りはじめた瞬間でもあった。

過ぎること150年、車を駆りかの地を訪ね、往時を偲び明日を観る。
宿から、わずか10数分である。


          開国の 怒涛砕けし 浜静か

                                                     夏早朝  久里浜にて

 

▼ 浦賀行政センター市民協働事業 浦賀の歴史とふれあう散策ルート http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/uragaws/index.html




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